目 次

『星を追う子ども』ミニ演奏会 @キネカ大森 (9月15日)
『星を追う子ども』スタッフ座談会 @キネカ大森 (9月15日)
『星を追う子ども』トークショー&プレゼント大会 @キネカ大森 (9月3日)
『星を追う子ども』凱旋上映記念舞台挨拶 @テアトル新宿 (7月16日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.4「『星を追う子ども』を論じる」@シネマサンシャイン池袋(6月23日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.3「『星を追う子ども』を読む」@シネマサンシャイン池袋(6月16日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.2「『星を追う子ども』を語る」@シネマサンシャイン池袋(6月9日)
『星を追う子ども』大ヒット御礼舞台挨拶 @新宿バルト96月7日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.1「『星を追う子ども』を聴く」@シネマサンシャイン池袋(6月2日)
『星を追う子ども』公開記念 『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日)

星を追う子どもスペシャルナイト Vol.4「『星を追う子ども』を論じる」@シネマサンシャイン池袋

新海:こんばんは。本日は『星を追う子ども』を観にきていただきまして、ありがとうございます。この映画の監督をしました新海誠と申します。よろしくお願いします。『星を追う子ども』を今日はじめてご覧いただいたという方はどれくらいいらっしゃいますか?・・・8割以上ですね、ありがとうございます。じゃあ映画が終わった直後で急に監督が出てきてびっくりしたかも知れませんね(会場笑)。

『星を追う子ども』は色々なテーマが詰め込まれている作品ですので、「複雑な映画だったな」とご感想を持った方もいらっしゃるかも知れません。ですが簡単に言うと、映画の構造としては"行きて帰る物語"というすごくシンプルな形を取っています。どこか遠くに行って帰ってくる話というのは、昔話や神話でずっと昔から語り継がれてきた、物語の普遍的な形のひとつなんです。行って帰ることで何があるのかと言うと、自分が元いた場所の価値を知ることができる。例えば、人は故郷や田舎から出て、はじめてそこの美しさを知ることができると思うんです。この作品で言うと、アスナがアガルタに行って見つけたものは、「私はただ寂しかったんだ」という、地上にいた時の自分自身の気持ちです。彼女はそのことに気付くために、遠くに行って戻ってくる必要があったんです。
行って帰る話でもうひとつ思い出すのは、「いないいないばあ」という赤ん坊の遊びです。僕には1歳になる子どもがいるのですが、生後3ヵ月くらいからもう、「いないいないばあ」をするとすごく喜ぶんですね。これもよく言われることなんですが、「いないいないばあ」も行って帰る話なんですね。一瞬お母さんが目の前から消えて、赤ちゃんはお母さんがいない世界に行って、またお母さんがいる世界に戻ってきて、そこで自分の立ち位置を確認する。これは児童文学者のあいだや発達心理学などで言われていることです。英語でもPeek-a-booといって普遍的な遊びの形なんですが、子どもと遊んでいると、"行きて帰る物語"というのはまさに人間が一番最初に触れる物語なんだな、と思います。
では本日のゲストですが、首都大学東京の教授であり、高名な社会学者でいらっしゃる宮台真司さんです。

宮台:こんばんは、よろしくお願いします。ちょうど16、7年前に、震災とオウムの事件があった半年後「新世紀エヴァンゲリオン」が始まって、ある種のシンクロを多くの人が感じたと思います。我々の世界に喪失という欠落があることをどう受け止めて、どうやって向き合えばいいのかということが提示されてるという意味では、この時期に公開されたこの作品もそういったシンクロ率が非常に高いなという印象があります。また、今まで新海さんの作品を全部観させていただいている中で、今回も一貫して描かれている共通のモチーフはやはりすごく印象的であると同時に、新しいチャレンジが明らかに存在していて、それをどう受け止めたらいいのか、と迷っているような方もいらっしゃるのではと思いました。

新海:お客さんの中には宮台さんの著書を読まれている方も多いと思うんですが、僕も90年代半ばくらいに、就職して仕事もあるし恋愛もあるし、色々迷ってる時に宮台さんの本に出会って、そこで色々なことを教えられました。実は、講演も当時付き合っていた女の子に連れられて聞きに行ったこともあったんです。その時の講演の内容はもう10年か15年くらい前ですのであまり覚えてはいないんですが、宮台さんがお話されている姿と、どこまでも理論的なお答えの仕方、その空気は今でもはっきりと覚えているんですね。ですから今日はそのような方においでいただいて、すごく緊張しています(笑)。
まずは『星を追う子ども』をご覧いただいたご感想などを伺えますか。

宮台:映画が始まってからシュンが岩の上から落下するまでの20分間くらいのテンポは、従来の新海さんの作品とほぼ同じリズムかなと思ったんですが、シュンがいなくなってアガルタに入って以降は、セリフとセリフの間とか、何かにショックを受けてそこから回復したりするとか、その刻みがすごく速いんですね。観ながら「これはプロデューサーに「尺を詰めろ」とかって言われて(笑)、本当は2時間半の作品が2時間弱になってるのかな?」と思ったりしたのですが、どうしてこの速いテンポになったんでしょう。

新海:プロデューサーからのそういった指示はあまりなかったです。ただ、今作は116分ですが、映画って観客の時間を2時間いただくということなので1分でも短くしたいという気持ちはありました。特に僕が子どもの頃に見ていたアニメーションというのは、時代劇とかドラマとかもしくは邦画と比べると、もともとテンポの速い物語だったと思うんです。日本のアニメは「鉄腕アトム」みたいな30分のテレビシリーズから始まったということもあるのかも知れませんが、限られた尺の中に声と効果音と音楽と絵の情報を思い切りぶち込んで、CMを抜かして20分程度だけど内容的には40分くらいあったように思えるものだったんです。そのテンポの速さが庵野秀明さんの作品とかでもすごく印象的だったんですね。そんな気持ちもあって、今回の作品は2時間弱なんだけど3時間くらい観たような密度の高い充実したものにしたくて、あのテンポにしました。

宮台:地底世界に行くというのはジュール・ヴェルヌの作品にもあると思うんですが、一部SFのモチーフなんですよね。僕は1960年代に「アウター・リミッツ」とか「ミステリー・ゾーン」とか、SFモチーフのアメリカのテレビドラマを見ていて、1時間枠で実際は45分とかしかないんだけど2時間の映画と同じくらいの内容だったのを、懐かしく思い出しながら観ていました。新海さんと僕は15歳くらい歳が違うけど、たぶんこのテンポが速い時代の作品の記憶があると思うんです。その記憶が10代、20代の人たちにはなくて、今は社会のリズムはむしろ速くなってるんだけど、作品や物語のリズムはどんどん遅くなっている。その状態に慣れた人たちがたくさん観てると思うので、彼らがどういうふうにご覧になるのかなと思いますね。

新海:仰るように、特に邦画などのリズムは年々遅くなっているような気がします。ひとつの表情を30秒カメラで撮ってたりすると「あれは3秒で分かるのにな」とか思ったりしてしまうんですね。ただ今回狙ってみたテンポ感というのはギリギリを狙い過ぎて、観ていただいた人が取りこぼしてしまう部分があるかも知れない、という気持ちは少しあります。でも、あのテンポの良さがアニメーションの良さだったりもするし、両立するバランスはあると思うので、それはこれから考えていきたいですね。

宮台:少し話題を変えますけれども、新海さんの従来の作品の特徴というのは、背景とか美術の描き方がすごくて、特に光や影のダイナミックな動きと登場人物の感情の動きが、シンクロするような形ですよね。それを普通は叙情的と言うのかも知れないけど、その叙情がおもしろいことに、恋愛模様の叙情や、光と影が織り成す叙情、それから表情としても描かれるというところが新海さんの才能だと思うんです。同時にそれが僕がすごく惹かれて、今までずっと観続けてきた理由なのかなという気がします。
例えば今回の作品では、時代設定でいうと1970年代くらいの風景ですが、僕は昭和34年の生まれなのでやはりああいう風景の中で育ってきてるんです。学校の屋上とか非常階段とか、僕は京都にいたから山の中腹にある岩とか、今と比べると余剰や欠如、隙間がたくさんあるような、本当に作品と全く同じような風景のところにひとりでいて本を読んだり風景を眺めたりしていたんです。その感覚をふと思い出しながら観ていました。そういう場所にいながら"ここではないどこか"を夢見ている、その主人公の感受性の働かせ方というモチーフにこだわる理由はどこにあるんでしょう?

新海:その理由を言葉でぱっと説明するのは難しいのですが・・・、まず、アスナが岩の上でラジオを聴いていますが僕自身も子どもの頃にああいう経験をしていたんです。育ったところが長野県の佐久市という場所で、周りを山に囲まれていたので日の出は遅いし、すぐ太陽が隠れてしまうので日の入りも早いんですね。ただ、太陽は隠れてるんだけど空はいつまでも青い。そこで見えるのが、向こう側の山肌に走っている車や東京の輸送トラック、そのさらに奥の八ヶ岳のような高い山で、その先に何があるんだろうというのは子どもの頃からぼんやりと思っていました。ラジオの音とか、配達される雑誌とかそういうものを見ながら、それらを小さな窓のようなものとしてその外の世界に思いを馳せていた気持ちはありました。宮台さんが仰ったことで言えば、恋愛の苦々しさもしくは学生時代の生きる辛さのようなあの頃感じていた気持ちが、山の中腹の景色とか屋上の風景とか、あの頃包まれていた風景と切り離せないという気持ちは今でもずっとあります。そこで最初に思い出すのは、非常階段とか、そういう何でもない場所の眺めだったりしますね。

宮台:不思議なことに、そういうふうに空間が隙間だらけだった頃は自分の心とシンクロする風景をなぜか探すことができて、そういう場所に逃げるということが普通にあった。アスナもやっぱりそういう存在ですよね。彼女はお父さんがいないという意味でもう喪失を体験してるけど、優しいお母さんがいて勉強もできて、周りの女の子たちからもそれなりにリスペクトされている。その女の子がどうして"ここではないどこか"に憧れ、その訪れを兆す音楽に心奪われているんでしょう。

新海:アスナには確かに母親も友達もいますが、それでも彼女にとって日常生活は「十分に幸せ」と言えるものではなかったからだと思います。その理由を探そうとすれば、友達と上手くつきあえないとか、仕事でお母さんがあまり家にいないことが心の底ではやっぱり寂しいとか、父を亡くしているので無意識に父性を恋しがっているとか、いくつか挙げることは出来ます。ただ劇中でアスナがモリサキに「アガルタに来てからずっとドキドキしてるんです。だからこの先になにか、きっと・・・!」と言っているように、それはまさに「なにか、きっと」としか言い表せないような若い頃の心の状態だと思うんです。先ほども言いましたが、僕も子どもの頃には自分の人生の先にあるものと山の向こうにあるものを重ねて見ていました。あの頃、もしも目の前に異世界への扉が開いたとしたら、僕もアスナと同じように自分でも明確な理由は分からないままに足を踏み出していたと思います。自分の人生の先にあるものを知りたいという衝動のようなものでしょうか。

宮台:ハイデガーという哲学者が「脱自」という概念について説いてます。人間というのは理性的な存在で、理性的な存在は必ず「自分が今ここに縛り付けられた存在だ」ということに気が付く。そうすると、「今ここに関わる枠組みのその外側に何があるだろう」と必ず想像する。もちろんそれを知らないという事実は受け止めるんだけど、「外側はどうなってるんだろう、そこに出たとき自分は何を感じるんだろう」と思う。簡単に言えば、「世界に向き合いたい」「ここではないどこかを目指す」という欲望を抱くのは理性的な存在としての本質で、当然のことだというふうに言ってるんです。そのことに近い感じがするんですよね。

新海:映画を作ることそのものが何かを知ることでもありますし、その先にいる観客の何かに触れることもできる。割とナイーブな考え方なのかも知れませんが、作ることがコミュニケーションの最初のきっかけになるし、僕が映画を作る一番強い動機としては、まだ見ぬ人と触れ合いたいということがあると思います。今のお話を聞いていて、それが単純に一番最初のアスナの動機に重なっているのかなという気もしました。
ひとつ、宮台さんにこれだけは聞いておきたいということがあるんです。自分の作品の中で、共通するモチーフとしてどうしても使ってしまうのが「ひとりの女性を想い続けてしまう男性がその女性を失った時にどうする」というもので、今回もモリサキという男がそういうキャラクターです。僕の作品をご覧いただく中で、宮台さんはそういう男性の気持ちの様をどのように見てらっしゃいますか。

宮台:どうして新海さんの作品をずっと好きで観てきてるのかと言うと、やっぱり無垢とかイノセンスという部分に関係する何かを提示してらっしゃるからだと思うんですね。この作品でもそうですが、主人公はたくさん驚くし、たくさんほっぺが赤くなるし、簡単に言うと僕たち以上に世界の細かい変化に気が付いて動転するんですよ。本当は多くの人は小学校や中学校の時ってそういう存在だったし、恋愛や性愛もそういう入口から入っているはずです。でも皆歳を重ねて色んな経験をするうちに、カッコ付きですが汚れて、そうしたことに驚かなくなるし、全てスルーできるようになる。付き合ってる相手が傷付いていようが、「まあどうせよくあることだよ」というように感覚も鈍麻していく。僕も実際、20代前半ぐらいから30代後半ぐらいまで十数年間かなり荒れた生活をしていた時期があって、その中で行って帰ってくるという経験をしたんですが、やっぱりイノセンスとか驚きとかを失うと、どんなに歳を積み重ねても世界を直視できない気がするんです。
単に内発的で素朴な、ナイーブな心からひとりにこだわるっていうことだけじゃなくて、世界を本当に微細に襞に至るまで直視しようと思うと、"あえて"そういうことをする。「世の中には他にも女がいるし男がいる、そんなことは百も承知だけど、でもやっぱりあの女しかいない」と思うことでしか表れてこない世界や、色んな光や影で立ち上がることってあるんですよね。そういう意味では、新海さんの世界が光と影で揺らめきに満ち溢れているということと、その主人公がひとりの女を思うこととは、必然的に結びついていると理解しています。新海作品のその人間関係的ではない、世界からやってくる叙情に対する開かれた感受性を擁護するためには、ああいう男を擁護しないわけにはいかない。それがもし2マタ、3マタ男だったりしたら、一体どういうふうにして世界の揺らめきが訪れるんだろうときっと思うでしょう。だって、何となく無理っぽいじゃないですか(笑)。

新海:今のお話を聞いて、僕はすごく腑に落ちました。今作でのモリサキは、自覚的に"あえて"亡くなったリサを思い続けていて、自分がより強く生きるためにそのような選択をした人物として描こうとしたんです。アガルタに行く前の古事記の授業で「死んだイザナミはイザナギの元へは戻らない」とモリサキ自身が語っていたように、彼は死者の復活は叶わないだろうことを最初から知っているんです。それでも妻を蘇らせることを人生の目標としなければ十全には生きられないということが、彼の一回りした純粋さです。
話を僕個人のことにずらさせていただくと、"あえて"ではなくベタに素朴に誰かに執着してしまうという、自分の若い時期の気持ちの苦しさを解消をしてくれたのが宮台さんの書かれた本でした。ご著書の「野獣系でいこう!! 」とかを読んでストレートに「なるほどなあ」と宮台さんに啓蒙していただいていたんです(笑)。
あれから 10 年近く経って宮台さんに、自分の作ってる映画でどうしてあのようなタイプの男たちを描いてしまうのかという動機を、自分がもうひとつこだわってる部分である叙情とか光や影の美しさに絡めてご説明いただけたことは、僕にとってはとても幸せなことですし今日の大きな収穫です。

宮台:最近確かに若い男の子に束縛する子とか、女が過去の男関係を話してるのを「聞きたくない!バカにしてるのか!」とキレる男とか山のようにいて、そういう存在とモリサキは違わなければいけない。世の中、どんなに過去のすごい体験をしゃべっても、その女性の中にイノセンスや無垢さを見出せるような、そういう男にしか一途になる資格はないっていう感覚は明らかに新海さんの作品にはあるんですね。そういう意味で言うと、中高生が新海さんの作品を観ることと、僕らぐらいの歳の人が観ることとのあいだにはちょっと違いがあるのかなという気がします。女の子のイノセンスとか純粋さというのが何であるのか、というのについての捉え方は成長によって変わってくると思うんですが、僕が想像するに今後新海さんの作品の中には、女の子の純粋さは見かけ上はそう見えないけど純粋、みたいなところにいったりするのかなという気がします(笑)。今回はある種世界の構築美に近いくらいの姿で描きこんでいらっしゃるんですが、そのあとはピュアとかイノセンスっていう概念をより構築する方向に行くのかな、と想像したりもしています。

新海:ありがとうございます。今日は僕自身のヒントになるお話を伺えましたし、とても楽しい時間でした。最後に何かございましたらどうぞ。

宮台:僕は映画批評の仕事もやってるんですが、そもそも映画が好きで、中学校に入った頃から必ずオールナイトに行ってたり、一時期自分で作ってたこともあります。それだけ映画をたくさん観てたのは、やっぱりあまりにも現実がつまらないからです。「ここではないどこかがあるんじゃないか、それを告げ知らせてくれる映画があるんじゃないか」というふうにアプローチしてたと思うんですね。僕は新海さんの作品が好きな男の子の中には、中学時代の僕と同じような人たちがたくさんいるんじゃないかと思います。なので、何でこんなつまらないんだろうという部分と、「ここじゃないどこかがあるはずだ」という感受性の結びつき、この基本モチーフを、今後もビビッドに追及していただきたいです。そういう中学生的な感覚というのは歳を取れば取るほど僕にとっては貴重に思えるんで、そこだけは失わないでください。

新海:中学生的な・・・(会場笑)。がんばります、ありがとうございます。『星を追う子ども』のシネマサンシャイン池袋での上映は明日までとなってますが、もしよろしければもう一度くらい観ていただければ(会場笑)、嬉しいと思います。この作品はそのあと地方で舞台挨拶をいくつか回ったりするんですが、海外での上映予定もありますし、そのうちまた東京に戻ってくることができればと思います。本日は遅い時間まで本当にありがとうございました。

(2011年6月23日)

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