本日は『星を追う子ども』を観にきてくださいまして、ありがとうございます。この映画の監督をしました新海誠と申します。よろしくお願いします。この作品は二ヶ月前に公開が始まって、東京では一旦終了し現在地方を中心に公開していますが、凱旋上映という事でテアトル新宿に戻ってくる事が出来ました。これはひとえに皆様の応援のお陰だと思っています。今日はじめて、この作品をご覧いただいたという方はどれくらいいらっしゃいますか?ほとんどですね、ありがとうございます。
『星を追う子ども』は色々なテーマが詰め込まれている作品なので、「複雑な映画だったな」と思った方もいらっしゃるかも知れませんが、構造はシンプルなんですね。いわゆる"行って戻る"物語です。神話や昔話から繰り返し続く物語の普遍的な形で、「浦島太郎」もそうですし『千と千尋の神隠し』もそうですね。"行って戻る"と何が分かるかというと、元の場所の価値や、元いた場所での自分の気持ちが分かるわけです。今作で言えばアスナの「私はただ寂しかったんだ」という気持ちや、あるいは「シンはシュンくんじゃなかったんだ」という気持ちです。アスナは地下世界までの永い旅をすることでようやく、自分の気持ちに気づくことが出来た。"行って戻る"物語という構造はそれ自体にそういう力があるわけです。例えば皆さんもご存知のとおり、故郷を出てその美しさに気づいたり、実家を出ることで初めて家族のありがたみがわかったりしますよね。
また、"行って戻る"という物語から連想して、通過儀礼・イニシエーションという言葉も思い出します。通過儀礼というのは大人になって社会に入るための儀式のことで、多くの場合は痛みや恐怖を通過します。日本では儀式としての通過儀礼は1945年の兵役検査以降なくなりましたが、例えば夏休みにやる肝試しもディズニーランドのジェットコースターも、怖さ・非日常を通過してから日常に戻るという、かつてあった通過儀礼の形を繰り返しているわけです。この数十年、僕たちは漫画やアニメやゲームなどのサブカルチャーを通じて、ひたすら通過儀礼のモチーフを繰り返し、擬似的に大人になるための学びを行ってきました。「電脳コイル」というアニメがありましたが、クライマックス、ヒロインが電脳世界から脱出するときに、「痛みを感じる方向が出口だ!」と声が聞こえる。とても意識的に、通過儀礼を描いた優れた作品だったと思います。
でも、皆さんご存知のように四ヶ月前に大きな地震が起きて、本当の非日常を目の前にすることになりました。そのことで途方に暮れている物語作家もたくさんいると思います。そもそも物語は現実を模して描かれたものだから、それを反転して考えれば、現実でも僕たちはこれをイニシエーションとして通過し、より強く成熟していくしかない、ということだけは判っている。でも、現実にはどうすれば良いのだと多くの人たちが、少なくとも僕はまだ立ちすくんでいます。
先日、仙台の被災地に少しだけ行ってきました。津波に町がさらわれいちめんが廃墟。たまたま天気が良い日で、ちょうど夕方の空が青くて高くて海が穏やかに輝いていて、ずっと遠くまで荒れ地が見わたせて、所々残っている建物が地面に影を落としていて。その風景が、大変不謹慎な言い方かもしれませんが「これは美しい風景だ」と感じました。ただ、それは人を包み込む美しさではなく、人とは関係のない自然本来の固く冷たい残酷な美しさです。
そこで、二つの言葉を思い出しました。一つはサン・テグジュペリの「星の王子さま」、「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ」というセリフです。例えば『秒速5センチメートル』の夜景でふと手前の家の明かりが消える、それだけでその風景を美しいと思うのは、そこに人の生活があることを観客が知っているからです。これが「情緒」とか「叙情」という言葉の本質だと思います。もう一つは、SF映画『ブレードランナー』で、追い詰められた人造人間のレプリカントが死の直前に言うセリフ。「お前ら人間には信じられないものを俺は見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船、タンホイザー・ゲートの輝くオーロラ…」これは人間には触れることの出来ない、どこまでも固く冷たい残酷な自然の風景です。
そういう言葉を思い出す中で、今回の『星を追う子ども』でも、僕はこの二種類の風景を描きたいと考えていたことを思い出しました。前半のアスナが暮らす町の景色は、人間が長い時間をかけて自然とともに作り上げてきた、それだけで見ているものを癒やす美しい風景です。一方でアガルタ後半の、アスナが夷族から逃げているシーンでのオーロラや、モリサキが降りていくフィニス・テラ、これは風景としては単純に美しいのだけれど、その美しさに癒しを見いだしたり情緒を託すことは出来ない残酷で冷たい風景です。あまり上手く表現できなかった部分もありますが、『秒速』でやったような「救いとして機能する風景」以外の風景を描きたかったんです。なぜなら、人は風景に救われることもあるけれど、風景なんかでは救われないということだって当然あるからです。『秒速』で風景に意味を託しすぎてしまったことへの反省もありました。
そんな中で思い出すのは、今日から公開の始まったジブリの『コクリコ坂から』です。僕は原作は読みましたが映画はまだ見てなくて、楽しみにしている作品です。おそらく、先ほどの話で言えば人を包み込む優しい風景を描いた作品だと思います。宮崎駿さんなのか吾郎さんなのか「今はファンタジーを作るべきではない、日常を描くべきだ」と仰ったとのことですが、作り手は様々な理屈付けをするものですから、僕も今『秒速』を出したとしたら同じことを言ったかもしれません。でも僕は今、先ほど言ったように少し別のことを考えています。本来残酷な場所・世界で人はどう生きていくか。その時に風景は人の目にどう映るのか。異質な風景に情緒を見いだすことが出来るとしたら、それはどのような絵なのか。それが出来るのがアニメーションの強さであり役割だとも思います。
もう少しジブリと関連したお話を続けますね。『コクリコ坂』のキャッチコピーの「上を向いて歩こう」は良い言葉ですが、でもこの言葉をモリサキやシンやアスナに言うことは出来ません。彼らは何か決定的なものを失ってしまったから、どうしても下を向いてしまう。「あなたの大切な人はもういない、でも元気を出して上を向こうよ」そういう言葉は彼らにはきっと響きません。「上を向いて歩こう」という言葉が力を持つのは、自分の周りに揺るがない共同体や温かな人に包まれていると分かっているからで、だから安心して上を向ける。『コクリコ坂』はきっとそういう物語、あるいはそれを復権させる物語で、それはどこまでも正しいことだとは思いますが、共同体に決して溶かすことの出来ない孤独を抱え続ける人だって実はたくさんいます。『星を追う子ども』は、温かな共同体の中にいても、どうしてもその中に溶かし込むことの出来ない、固い孤独の核みたいなものを心に抱え込んでいる人物たちがいて、でもその孤独が時折響き合う、それがせめて美しく救いになる、そういうタイプの物語を作りたかったんです。
この二ヵ月で感じてきたことはたくさんありますが、今お話ししてきたようなことが、僕にとっての重要な事柄でした。溶かすことの出来ない孤独を抱えている人、そういうものを抱えているかもしれない観客に向けて、せめて共感していただける作品を作っていきたいと今はそう考えています。本日はどうもありがとうございました。
(2011年6月23日) |