新海作品は、私が社会に対して抱いている考えを代弁してくれている存在
■『星を追う子ども』での多田さんのお仕事について教えていただけますか。
多田
「今回の作品ではアレンジャーとして参加させていただきました。天門さんが作られた曲を、生演奏のオーケストラで演奏するために譜面を書き直したり、調整をしたり、時には作曲もさせていただいたり。今回の音楽で使われた楽器はピアノ、ストリングス(弦楽器)、木管楽器、金管楽器、ハープ、ティンパニーなどです。コーラスが入る楽曲もあり、総勢48人のミュージシャンでスタジオ収録をし、私が指揮をとらせていただきました。打ち込みで全部仕上げることもできるんですが、私はやっぱり生演奏にこだわりたいという気持ちがあります。スタジオにいるのが本当に好きなんですよ。オーケストラのみなさんと一緒に作りあげていくことに魅力を感じますね。」
■多田さんが制作に加わられたときには天門さんの曲はすでにあったのでしょうか。
多田
「最初の打ち合わせは2010年5月頃だったので、まだ曲はなかったですね。新海監督の絵コンテをもとに、新海監督と天門さんと三人で音楽のイメージをすりあわせてゆく作業から始めました。その段階では、監督の中で漠然と思い描いている音楽のイメージがあったのかもしれませんが、まだ絞り切れていなかったのではないかと思います。非常に印象的だったのは、新海監督から今回は“ピアノオーケストラ“でいきたいと……“ピアノオーケストラ“というのは新海さんの造語ですが、ピアノを包みこんでいくようなオーケストラサウンドにしたい、とのことでした。それを受けて、私はできるだけ多様な音楽の可能性を提示し、「こういう音はどうですか」「こういう感じの曲はどうですか」と既存の曲や資料をいろいろお渡ししたりするやりとりを通じて、三人で方向性を固めていきました。」
■曲に関して、新海さんからどのような指示がありましたか。天門さん(インタビュー♯06)は「ものすごく細かくて大変」とおっしゃられていましたが……。
多田
「そうですね、たしかに音のタイミングを映像に合わせるための秒数の指示は非常に細かくあったので、スケジュール的には大変でしたが、やはりこの作品が好きなので楽しんでやっていましたよ。アレンジそのものについては、おそらく新海監督と私のイメージが近かったんだろうと思います。それほど「こうして」「ああして」というような具体的な指示はなく、基本的にはこちらに任せていただいていました。新海さんとはよくスカイプを使って打ち合わせをしていたんですが、クライマックスシーンの曲のアレンジを送られてきた動画に合わせながら作業しているときに、映像とストーリーがあまりにも素晴らしくて、感極まって「涙で画面が見えません!」と新海さんに伝えたりしながら仕事していましたね。新海さんとの最初の出会いは「Promise」(2009年12月に発売されたエミネンス交響楽団演奏による新海誠作品イメージアルバムCD)のお仕事でしたが、そのときに新海監督のこれまでの作品を拝見させていただきました。今の社会に対して私が常日頃感じていることが、新海さんとすごく近いんじゃないかなと思ったんです。自分が考えていることを新海さんに代弁して映画にしてもらっているような感じで、その世界観にすごく共感して、「Promise」では作品に描かれている、うわべだけではない本当の心の中のせつなさや喜びを音楽で表現したいと思って編曲しました。ですので、今回のお仕事のお話をいただいたとき、とても楽しみでしたし、新海監督とのやりとりも、大きくイメージが食い違うこともなく非常にスムーズにゆきました。」
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新海誠作品イメージアルバム「Promise」
多田さんは「Through the Years & Far Away」、
「ミカコからの便り」、「彼女と彼女の猫 Main Theme」、
そしてボーナストラックである
「彼女と彼女の猫 Main Theme(Piano Version)」の編曲を担当
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大切なのはいろんなことに興味を持つこと。音楽の勉強だけやればいいというわけじゃない
■多田さんが音楽の道に進もうと思われたきっかけは。
多田
「小学生の頃にピアノ教室に通ったのが最初ですね。親がピアノを買ったときに面白がってちょっと弾いていたら、「せっかく買ったんだし、習うよね?」って、そんな感じでほとんど強制的に通わされて(笑)。でも私が子どものころはピアノを習っている男の子なんて少なくて、その教室には40人ぐらいの子がいたんですけど男の子はたった2人で、肩身の狭い思いをしていました。ピアノの練習も好きじゃなかったので、月に4回のレッスンのうち3回はサボって友達と野球やってました。ピアノ教室に行くふりをしてレッスンバッグを持って家を出てるのに、帰ってきたらなぜかバッグに土がついてるぞっていう感じで(笑)。」
■ピアノの先生から怒られなかったんですか?
多田
「弾く練習については甘い先生だったので、それほど怒られなかったんですよ。でもなぜかその先生は、聴音(音を聴いて楽譜に書き取ること)の練習だけはものすごく厳しく、できないと家に帰らせてくれなくて、泣きながらやっていた記憶があるほどです(笑)。なんでこんなに厳しいのか、当時子どもだった私には理解できなかったんですけど、その後音楽の道を志すようになってからその聴音の能力が非常に役に立ちましたね。音楽を視覚的にとらえることができるようになったんです。音楽を俯瞰で見渡して一枚の絵のように全体をとらえ、「ここの色合いがおかしいな」「ここの色をちょっと変えたいな」ということが音になって聴こえてくる、というイメージですね。絵を仕上げていくときって、「こういう色にするには、どの色をどういう割合で混ぜたらいいかな」などと考えるでしょう。それと同じ感覚で、「この楽器の音とあの楽器の音を足すとこういう音になるな」とか「どれぐらいの割合でどの楽器をどんなふうにミックスさせようか」というような感じで音楽をとらえています。それはやはり聴音のスパルタ教育のおかげで、「どんな高さ、どんなリズムの音が出ているのか」「どの楽器がどの音色を出しているのか」を瞬時に聴き分ける能力が身についているからだと思います。もしかしたらその先生は、ある種の音楽的な能力を幼い私のなかに見出してくれていたのかもしれません。今となっては本当に感謝しています。」
■曲を作り始めたのもその教室ですか?
多田
「作曲は中学に入ってからですね。でも、曲を“作る”というよりも、まずは“真似る”という感じでした。最初は好きなクラシックのポケットスコア(フルスコアの縮小版)を買ってきて、曲を聴きながら分析して、そのうち自分でも五線紙を買ってきて好きな曲を聴きながら譜面を書くようになったんです。だから、スコアの書き方は完全に見よう見まね。我流、独学なんです。それと、中学でブラスバンド部に入ったので、そこで先輩たちのために各楽器ごとの譜面を作らなくちゃいけなくて、フルスコアから必要なパートを写譜(譜面を写しとったり清書したりすること)しながら楽譜の構造を覚えたりしました。移調(曲全体のキーを別の高さに変えること)について学んだり、わからないことは一生懸命調べたり。そんな感じで少しずつ音楽の知識を積み上げていきました。でも“積み上げた”という意識も特になくて、“好きだから夢中でやっていた”という感じですね。」
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多田「普段はパソコンで仕事していますが、
外にいるときにフレーズを思いついたら、
この五線紙にエンピツでさっと書くことが多いですね。
五線紙はたいていカバンに入れて持ち歩いています。」 |
■ブラスバンドでは何の楽器を演奏してらしたのですか?
多田
「中学ではトロンボーン、高校ではサキソフォンです。ブラスバンドだけではなく、ちょうどバンドブームだったのでバンドでギターを弾いて、フォークソングを作ったりもしていました。特にクラシックだけ聴いていたというわけではなくて、ポール・モーリアとか、そういうヨーロッパ系のイージー・リスニング、ライトミュージックが好きですごく影響を受けていますし、ロックも、歌謡曲も、音が鳴るものならなんでも、という感じで聴いていましたね。」
■それだけ音楽漬けだったということは、子どものころからすでに音楽の仕事を目指してらしたのですか?
多田
「いや、小学生のころはラジオの深夜放送が好きで、パーソナリティに憧れていました。それで、大好きな番組のパーソナリティにファンレターを出して、「どうしたらパーソナリティになれますか?」って尋ねたんです。返事なんか返ってこないだろうと思っていたんですけど、その方は返事を送ってくれたんです。そこには「もし君がパーソナリティになりたいなら、いろんなことに関心をもって、大学にいって広く勉強することが大事だよ」と書かれてあって、その言葉は私にとってすごく印象的でしたね。「あっ、パーソナリティだからといって、しゃべることだけ考えていればいいというわけじゃないんだな」と。それと、私の父は会計士なんですが、父が「会計士といってもただ単に会計の仕事だけをやっていては幅が広がらない。語学堪能ならもっと仕事が広がるし、さらに絵が描けたり音楽ができれば、自分の幅も人脈も広がる。何かをやろうと思ったときに、その一つだけをやっていても、そこでとどまって小さい人間になってしまうよ」とよく言っていたんです。そんな父の影響もあって、今でも音楽の仕事をやる上で「広くいろんなことに興味をもつことが大切で、それが音楽になって戻ってくるんだ」と思っています。」
プロを目指して単身上京。ひたすらバンド活動とデモテープ作りの日々
■高校卒業後は音楽大学を目指されたのですか?
多田
「いや、高校を卒業して半年ぐらいアメリカのロサンゼルスの親戚の家にホームステイして、英語の勉強をしていました。勉強といっても学校ではなくて、ラジオや音楽を聴いたり、街中で「今日はあのお店に行って人としゃべろう」とかそんな感じで、アメリカの土地の空気を感じたかったんです。アメリカの音楽を理解するのに、やっぱり空気感を知っていることでより理解が深まると思ったので。日本に帰ってきて、音大に進むよりもプロになりたい、一刻も早く東京に行きたいと思い、親を説得して東京に飛び出してきました。」
■ご両親は多田さんが音楽の道に進むことに反対だったんですか?
多田
「父親は会計士という自分の仕事を継いでほしかったみたいですね。そのころ父はさかんに「会計士は数字を使って音楽をやっているようなものなんだ」と持論を語っていました。「数字を見て経営を指南するわけではなく、そこから見える会社の方針をくみとって、人間的にアドバイスする仕事なんだ」と。仕事というのはどういう分野でも共通しているものなんだと伝えたかったんだろうと思います。あるいは、私を会計の道にひっぱりこもうとしてそういう言い方をしていたのかもしれません(笑)。でもやはり私としては、音楽の道に進みたいという意志が堅かったので、とうとう父も折れて、「東京に出るならこの人を頼りなさい」と、西麻布でレストランを経営している父の知人を紹介してくれたんです。私はまずそこでバイトしながら、お店に来る音楽業界の人を紹介してもらいつつ、プロへの道を模索し始めました。自分でもデモテープを作ってあちこちの音楽事務所に送ったりしていましたが、うまくいかなくて挫折もあり、そのバイトもやめてしまって。「もう無理なのかなあ」と感じ、本当に音楽から離れていきそうになった時期に、トラックの運転手のアルバイトをしていたんですよ。でもある時「やっぱりこのままじゃダメだ!」と思い、きっぱりアルバイトはやめて、もう一回音楽をやろう、とにかくバンドをやろうと思って、音楽スタジオに貼ってある「バンドメンバー募集」の貼り紙を見てかたっぱしから電話しました。それでバンドを4つぐらい掛け持ちしていましたね。その一方で、自分のデモテープを作って事務所に送るんですが、なかなかひっかからない。いよいよ「もうこれで最後にしよう」という思いで送ったテープが、ある事務所のスタッフの目にとまって、そこでようやくプロとしての第一歩を踏み出しました。」
■では、いよいよ作曲家デビューですか。
多田
「いえいえ、いきなり作曲家にはなれないですよ(笑)。最初のころは、すでにある曲を譜面におこして作り直し、結婚式場用のBGMにして納品するなど細かい仕事をやっていました。その事務所に辛島美登里さんが所属していて、辛島さんのコンサートのバックミュージシャンをやらないかと声をかけてもらい、4年ぐらいツアーメンバーとして全国をまわりました。辛島さん以外にもいろんなアーティストのサポートメンバーとして演奏活動をして、そういった仕事が一段落したときに、「大学に行きたい」と思ったんです。でも、もう音楽のことはある程度わかっていたし、今これから音大に行って音楽のことを勉強するよりも他のことを学びたくなり、「自分が好きな英語をもっと極めたい」と思って、社会人でも入学できる日本大学の英文学専攻に入学しました。」
■音楽の仕事と大学生活の両立は大変だったのではないですか。
多田
「そうですね。そこは社会人でも通えるクラスだったので、だいたいレポートやスクーリングで単位がもらえるんですが、中には真面目に授業に通ったのに試験の日にレコーディングが重なって単位がもらえなくて涙……ということもありましたね(苦笑)。結果的に音楽の仕事がとても忙しくなってしまって中退してしまったのですが、大学に行ってよかったと思います。大学というところは、“奥義”を学ぶ場所だと思うんです。小中高校は基礎的なことで、大学で初めて学問の“神髄”を知るという感じですね。英語に関してもそうで、大学では語源とか外国人の心情的な部分や文化を教わったり。面白かったですね。大学で知り合った友達とは今でも仲がいいですよ。総合商社に勤めていたり、学校の先生になっていたり、みんないろんな職業に就いていますしね。高校の時以上に大学の時の友人とは深い関係ですね。」
■多田さんの、関心や視野を広くもつ姿勢が、現在のお仕事の多才ぶりにつながっているのではないでしょうか。作曲も編曲も演奏も指揮もなさる上、アニメーションだけでなく実写映画の仕事も手がけていらっしゃいますね。
多田
「そうですね。“なんでも面白がってやる”というのは子どものころからずっと変わっていないですね。作品のジャンルも今回の『星を追う子ども』のようなシリアスなものから「真・恋姫無双」(2009年・2010年に放送されたテレビアニメ)みたいな萌え系の作品までいろんなタイプのものがありますしね。「真・恋姫無双」の音楽を作った時は、中西(伸彰)監督から「この作品は女の子たちが『戦ってるか、食べてるか』のアニメです」と言われましたし(笑)。でも、コメディ作品だからといって気楽な気分で作っているというわけではなくて、コメディタッチの音楽でも実はストイックな現代音楽をモチーフに使って作っていたりするんです。ですから、作品のタイプによって自分の中のモードを切り替えたりするようなことはなくて、私の中では全部つながっているんです。」
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多田「カフェでコーヒーを飲んでいるときなんかにパッと思いついて、
カバンも何も持っていないときは、紙ナプキンにこんなふうに
メモをとって持ち帰ることもありますよ。」 |
音は幼少期の“におい”から生まれるもの。音からその人の人間性が透けて見える
■多田さんはどのようなときに音楽の発想が浮かんでくるのでしょうか。
多田
「絵コンテを読み込むのはもちろんですが、音楽の発想の源は、自分の経験値なんじゃないかなと思います。これは音楽の技術的な経験値ではなく、もっとメンタルなものですね。私が尊敬する前田憲男先生(ピアニスト、作曲家、編曲家。大阪芸術大学音楽学科客員教授)のお言葉なんですが、「音楽というのは、自分の幼少期の “におい”だ」と。自分が幼稚園や小学生のころに嗅いでいたにおいや、なんとなく流れていた音楽や見た風景が、今の自分にとっての音楽そのものだ、と前田先生はおっしゃられていて、そのお話を聞いて「本当にその通りだな」と思いましたね。自分も、幼児期に遊んでいたこと、それこそピアノの練習をさぼって野球をやっていたときの土のにおいや風景が自分の中にイメージとして残っていて、それが音として変換されて外に出てくる。抽象的ですが、そういう言い方しかできないですね。」
■子どもの頃の経験って大事なんですね。
多田
「ええ、やはりその時期が一番感受性が強いですし、子どもは外部の刺激を素直に受け入れるので、ずっと根底に残るのではないでしょうか。たいていは思春期になって自分のやるせない思いを代弁してくれる音楽と出会い強く共感するので、「影響を受けた音楽は?」と聞かれると中学や高校の時に聴いた音楽を挙げる人が多いと思います。でも実は、根底はもっと幼いころにあるものなんじゃないかな。新海さんの絵コンテを読んでいるときに、絵やセリフに反応して私の中でふわっと思い浮かぶ音があるわけですが、どういう音が浮かぶかは十人十色でしょうね。子どものころの経験も違いますし、それまで聴いてきた音楽も違いますから。最近は私がオーディションでミュージシャンを選ぶ立場になることがありますが、何を基準に選ぶかというと、基本的な技術力はもちろんですが、最終的には歌や音を通して透けて見える人間性なんじゃないかなと思います。指揮をしていても、ミュージシャンが出す音を聴いて、その人がどういう人生を歩んできたのかが透けて見えるんです。もちろん「昨晩のおかずがコロッケだった」とかそういう具体的なことはわからないですけど(笑)。でも、その人がどういう気持ちで生きてきて、今までにどういう苦しみや悲しみがあったのか、音にだいたい表れるものなんです。これって、他の分野でもそういうことがありますよね。例えばお医者さんであれば、レントゲン写真や検査の数値を見れば、その患者さんの普段の生活習慣、タバコを吸うとかお酒を飲むとかをだいたい見抜いてしまうでしょうし、私の父は会社の経理書類を見れば、その会社の方針や社長さんが何を大事と考えて経営しているかがわかると言っていました。音楽も、一つの音にその人の人生の積み重ねが込められていて、透けて見えるものなんです。」
■すごいですね。きっとそれがプロということなんでしょうね。
多田
「でも、そうすると、自分が出す音は、どうやっても自分から切り離すことが難しい、ということになってしまうんですよね。結局“自分らしさ”と“自分から抜け出せない苦しみ”というものは背中合わせだと思うんです。若いころは、「もっと多田さんらしさを出して」とアドバイスされていましたし、自分でも「もっとがんばって自分を出さなくちゃ」と思っていましたが、最近になって急に「多田さんらしい音楽ですね」って言われることが多くなって驚いているんです。作っているものは以前と変わらないのにね(笑)。「ここが多田さんらしい」って言われても自分ではよくわからないし、逆に「今までの自分とは違うものを作りたい」と思っても無意識のうちに自分の色がにじんでしまう。だったら、あえて「自分らしさを強調しよう」などとは考えず、いろんな方のお力をお借りして、一緒によりいいものを作っていこうとする方がいいんじゃないかと思っているんです。きっと私が譜面を書いた段階で、私らしさというのはもう十分出ているんでしょうし(笑)。だから私は一人でこもって作曲するよりも、劇伴(映画やドラマの劇中伴奏音楽)の仕事が好きだし、指揮者やアレンジャーとして他の方と一緒に仕事をするほうが好きなんです。」
■スタジオでの収録を見学させていただきましたが、指揮をしながら同時に大勢のミュージシャンの方々それぞれに的確な指示を出し、次々に録音していくスタイルに驚きました。あれだけたくさんのミュージシャンの方をまとめるのは大変ではありませんか。
多田
「私自身は、ミュージシャンの方々を“まとめている”っていう意識はないんですよ。なんだかカッコつけた言い方だと思われるかもしれませんが、本当に“ミュージシャンお一人お一人の方のお力をお借りする”という気持ちで収録にのぞんでいます。スタジオプレイヤーの方々というのはものすごいプロフェッショナルで、スタジオに来て初めて譜面を見て、1回練習した後、「ここはこうしましょう」と調整して、2回目にはもう収録するんです。短時間でたくさんの曲数を収録するわけですから、みなさん「1回の演奏で決めてやる!」という意気込みがものすごいんです。だから、こちらもうかうかしていられない。事前にあらかじめ楽譜を読み込んで「ここはこう指揮を振ろう」というイメージが自分の中でできあがっていないと、ミュージシャンからこちらに向かってくるベクトルに太刀打ちできません。」
■今回の人数でいえば、「ミュージシャン48人」対「指揮者1人」ですから、ものすごく強いベクトルが多田さんお一人に向かってくるわけですよね。
多田
「そうなんです。ですからスタジオの中というのは、ミュージシャンの方々と私のいわばガチンコ勝負の場なんです。私があいまいに「うーん、もう1回」なんて言ったら、ミュージシャンの頭の中にどんどん“?”が増えていって、集中力がなくなってくる。だから私もひるまない精神力をもって指揮棒を振っています。ただ、上から「こうしろ」と頭ごなしに自分のイメージを押しつけるのではなく、あくまでも対等な立場で、短い時間の中でもできるだけ皆さんのいいところを引き出したいんです。編曲をするときも同じ気持ちで、天門さんの楽曲の魅力をより際立たせ、新海監督の素晴らしい世界観をよりふくらませるようなアレンジを、と心がけました。」
人生にわかりやすい答えはない。「本当の優しさとはなにか」を感じてほしい
■音楽について、特に「ここは聴き逃さないで!」というシーンを教えてください。
多田
「アスナとモリサキが地下におりてゆくシーンですね。あのシーンは、アスナとモリサキ、二人のいろいろな感情が入り交じっています。アスナは不安を抱えていますが、“地下世界に何があるんだろう”というよりも“自分はいったい何をしにゆくんだろう、どうすればいいんだろう”という不安なんですよね。モリサキには目的があり、地下世界に期待する気持ちがありますが、ただ単に知識を持っているだけですから、地下に行ってどうしたらいいのか実は何もわかっていない。そういう二人の複雑な期待や不安の気持ちを表現したくて、私のアレンジも複雑な和音進行を使った音楽になっています。そして、地下世界に着いて目前にバッと風景が広がったとき、雄大な音楽につながってゆきます。これはもう天門さんの音楽が本当に素晴らしいので、ぜひとも聴いていただきたいですね。雄大といっても、単にスケールが大きいということではなく、「ここから次の物語が始まるけれど、それがハッピーエンドにつながっているのかどうなのか、それはわからない」という含みをもった曲になっていて、素晴らしいんです。このシーンでは、音楽を聴きながらアスナやモリサキの気持ちを観客の皆さんにもぜひ共有してもらって、二人と一緒に地下世界におりていただきたいですね。そのうえでラストシーンを見ていただけると、きっと、エンディングがもっとどーんと意味が重くなると思うんです。それでラストシーンの意味が気になって、もう一度劇場で見たくなるはずです(笑)。」
■多田さんから見て、作品から透けて見える新海監督の人間像とはどういったものですか。
多田
「人間の感情の、単にきれいな部分ではなく、“本当の優しさ”を表現される監督だな、と思いますね。それはすごく難しいことだと思うんです。新海監督は“幸せとはなにか”“愛情とはどういうものか”ということに対して自分なりの信念を持っている方だと思います。それは、うわべだけのものでは決して無い。たとえば、誰かが苦しんでいるときに、「大丈夫?」と優しい言葉をかけることは簡単で、誰にでもできることです。でもその言葉にもいろんなシチュエーションがあって、その人のことを心底心配して出てきた言葉かもしれないし、とにかくその場で自分の存在をアピールしたくてぽろっと出たのかもしれない。新海さんは、本当にその人のことを深く思いやるがゆえに、うかつに「大丈夫?」という声をかけられない人なんじゃないかと思います。結局、その人自身の力で困難を乗りこえていくしかないとわかっているから。もし「大丈夫?」という言葉をかけるなら、その人には言葉をかけた責任が生まれるわけで、責任がとれないのであれば軽い気持ちで言うべきではない。私もその考え方に非常に共感します。自分の力で困難や挫折を乗りこえてきた経験のある人ならわかるのではないでしょうか。実際に監督からいろんなことをお聞きしたわけではありませんが、作品から監督ご自身のこれまでの人生や信念を感じますね。その“本当の優しさ”は、時に残酷でありえます。しかし、だからこそ新海監督の作品はロングセラーなんだと思います。」
■今回の『星を追う子ども』にも、やはり新海監督の信念は透けていますか。
多田
「もちろんです。変わっていないですよ、今回の作品も。最初にイメージボードをいただいたときには、これまでの作品の雰囲気とは異なるファンタジーな世界観ということで「今までと違うな」と思いましたが、絵コンテを読み解いていくうちに「ああ、やっぱり新海監督だ、核となっているメッセージは同じだな」と感じましたね。新海さんの作品って、わかりやすいハッピーエンドではないでしょう。『秒速5センチメートル』だって、最初に見たときは、正直「うわっ、ちょっとこれは……」とモヤモヤとした気持ちになりましたが(笑)、しばらく時間を置いてもう一度見返すと、「なるほど、あれがあの二人にとってのハッピーエンドなのか」と思えたんです。生きることはそんなにわかりやすいことじゃないし、簡単に答えは出ないものです。今回の作品も、けっしてわかりやすいハッピーエンドというわけではないと思います。私はやはり年齢の近いモリサキに感情移入して見てしまいますが、クライマックスのモリサキのアスナに対する行為を、誰も否定できないし責められないと思うんです。この作品は、見る人の年齢やどんなふうに生きてきたかによっても、受け取られ方がずいぶん違うでしょうね。私も10年後、20年後に見たら、また違う見方になるでしょう。」
■新海監督は、今回の作品をアスナと同じくらいの年齢の子どもたちにもぜひ見てほしいと言っていました。
多田
「実はね、家で映像を見ながら仕事をしていたら、うちの7歳の娘が、興味津々、食い入るように映像を見ていました。内容についてもある程度はわかっているようでしたし、なにより絵が非常に美しいし主人公も女の子ということで、娘は気に入っている様子でした。小さい子どもにとっても充分見応えのある映画だと思います。お話が全部わからなくてもいいんです。新海さんのメッセージはきっと伝わると思いますから。子どもたちがこの映画を見て、きれいな映像や音楽を肌で感じてもらって、それが “におい”のように幼少期の記憶として心の根底に残るといいなと思います。“本当の優しさ、幸せとはなにか”“「人が人を想う」とはどういうことか”という思いを感じてくれればそれでいい。そうしてその子たちが大人になったとき、それぞれの職業や人生を生きていくなかで、『星を追う子ども』から感じたものを活かしてもらえたらうれしいなと思います。」
【インタビュー日 2011年3月4日
聞き手・構成:『星を追う子ども』宣伝スタッフ 三坂知絵子】 |